生きる

薬膳という考え方。
中医学の考え方に基づいた食事のことで、体調不良を改善し、健康的な体作りを促すことを目的としています。
薬膳の基本は「体に合った美味しい食事」です。季節やその日の体調などに合わせて選んだ食材をおいしく摂取することで、体を内側から整えます。
私は昔から自慢じゃないけれど人のことをまともに聞かない(^^; ので、都合の良いところだけ取り入れる不届き者であります。
塩辛いものや糖分の摂りすぎは良くないといいますが、ナトリウムにはミネラルがあって、体の水分を維持するのに重要な栄養素らしいです。
甘いもの特にアンコ(粒あん)の入った饅頭が大好き。
難しいことはおいといて、美味しいものは身になり活力になると都合のいいように解釈しよう。
だから好きなものと一緒にお酒も飲んでいる(^O^)
体が欲しがっているのだから。飲ませないという欲求不満のストレスを体に与えることは良くないのだ(^O^)

仕事で夢を抱いて、工場を拡張するために土地も買った。
それが巨大地震のために世の中全体が可笑しくなってしまった。
決して広いという土地ではないが、隅っこに家庭菜園も作った、烏骨鶏を飼ったり野生のニホンミツバチを住み着かせてロビンソンクルーソーもどきの生活になっている。
烏骨鶏の卵は「酢卵」にして毎食前にオチョコ一杯のんでいる。
烏骨鶏の卵5個に500ccぐらいの酢を入れて10日ほど漬けて作ります。
酢は体の中をアルカリ性にたもち、コレステロール値を下げる作用があるそうです。
最初は飲みにくかったけれど、慣れてしまえばどうってことはない。お医者さんでもらったアノ苦い薬と比べたら、なんてことはない。
自由気ままに生きているけれど、大した病気もしないが手足の衰えが激しい。
腰の悪さは、ラジオ体操で腰高な状態で上体を右や左に下ろすことができない。

あと何年と生きる?
といわれても、5年かぁ。10年というなら、エッ! そうかアッ! やなぁ。

user.png ランクル time.png 2023/11/08(Wed) 22:22 No.35
Re: 生きる
日本はおかしくなってきて、もうこの国の政治の中で生きていくのも難しい。
農業するほど土地もなし。
ニホンミツバチを10年ほど前から飼っている。
とは言うても野生のミツバチをおびき寄せているだけですが・・・

日本蜜蜂とは
日本蜜蜂は古来から日本国内に生存する蜜蜂です。
日本蜜蜂は夏には数万匹に達し、全体的に黒っぽく、女王蜂、
雄蜂は真っ黒で、西洋蜜蜂に比べ一回り小さい。おとなしいので蜂を強く握ったり、巣を壊したりしない限り滅多に刺しません。
蜂蜜は採蜜量が少なく、多くの種の花から集められるため「百花蜜」や「幻の蜂蜜」として重宝されています。

興味がある方は
「ニホンミツバチの飼い方さしあげます。」(無料)
添付PDFをプリントしてもおなじものです。

ほとんどネット上にあるものをまとめただけですが(^_^)

[添付]: 1739872 bytes

user_com.png ランクル time.png 2024/01/04(Thu) 19:09 No.36
Re: 生きる

人間だけでなく命あるものは必ず死がいつかはくる。

北九州の小倉に宮本武蔵記念碑がある。
養子であった宮本伊織が、父の業績を伝えるために1654年(承応3年)に建てたものです。
舟島(巌流島)で佐々木小次郎との決闘は有名だけれど、剣術で数多く勝負して負けなしは小説や映画の材料として最高のものです。
その中でも吉川英治の宮本武蔵はある意味お通さんを愛おしく思う恋愛小説でもある。
最高にいいですね。

偉大な剣豪でもあったけれど、芸術家でもあり文豪でもあった武蔵のような人間ではないが
寂れていく故郷の中で人生を終わるまで生きていこう。
user_com.png ランクル time.png 2024/01/21(Sun) 10:29 No.37
Re: 生きる
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私は二十歳すぎの頃、九州には年に4,5回は行きました。

九州小倉に、武蔵研究にとって重要な史料が存在する。それは、小倉城からおよそ五km東の、小倉と門司の境にある手向山(北九州市小倉北区赤坂)にある、宮本武蔵顕彰碑、巷間云うところの「小倉碑文」である。もっとも、「播刕赤松末流新免武藏玄信二天居士碑」と碑文にあるから、それが本来のタイトルだということにはなるが。
 この碑は高さ十五尺(四・五m)ほどの、かなり大きなものである。そして公園内に建っているから、誰でも見ることのできる現存武蔵史料である。
 この碑は、武蔵卒後九年の承応三年(1654)、つまり武蔵十回忌に、武蔵の養子・宮本伊織が建てたものである。伊織は小倉藩小笠原家の筆頭家老であり、領内のこの山を拝領していたから、ここに武蔵のためのモニュメントを建立したのである。

武蔵が死んだのは熊本に滞在中のことで、客死であった。最初は肥後に武蔵の墓が設けられたらしい。それに対してこちら小倉の武蔵碑は、武蔵のもう一つの墓であるということになる。
小倉のは本墓ではなく仮の墓、第二の墓である。しかしそれは肥後側の主張であって、伊織は肥後の墓を豊前小倉へ移転して、この武蔵墓を建立したのである。
面白いですねえ。
武蔵ファンにとっては、そんなことはどうでも良いのです。
武蔵伝説をあちこちから集めています。
もちろん書画も『五輪書』も

user_com.png ランクル time.png 2024/01/21(Sun) 20:42 No.38
Re: 生きる
屏風が谷庵
屏風ケ谷というのは、私が住んでいる字限図名(じげんず)が屏風が谷なのです。
瀬戸内海、播磨灘から急な坂道を登ると山の背に道があるように、その道の山側が谷にな
っていて道を屏風に見立てたら、その谷を「屏風が谷」と名付けたのだから納得できます。

私の親が生まれたのは、父は雨堤で母親は川上です。
父親の叔母が嫁いでいた婿さんが亡くなって出戻って旧姓を名乗り、子供がなかったので、
「ねえちゃん一人子供をくれ」とまるで子犬を貰うようにして養子になって今の姓になり
ました。
昔はそういうふうにして、金持ちではなくとも家系が続くような仕組みになっていました。
貧しい家庭の子が、お金持ちの子になって高い教育を承けて、政治家になったり学者にな
ったりと、社会が人づくりをしていたのでしょう。

MK磁石鋼を発見三島徳七博士という人も、広石村で喜住家の7人兄弟の末っ子として生
まれ、三島家の養子となり、勉強ができ小学校卒業後、島外で書生をしながら中学受験を
志し、独学で中学4年生への編入試験に合格、中学校を首席で卒業し、高等学校に入学し
ます。
高校時代も努力を惜しむことなく勉学に打ち込み、23歳のとき、東京帝国大学(現在の東
京大学)へ入学。
そこで「冶金学」と出合い、MK磁石鋼発見となります。

日本十大発明
豊田 佐吉(木製人力織機)
御木本 幸吉(養殖真珠)
高峰 譲吉(アドレナリン)
池田 菊苗(グルタミン酸ナトリウム)
鈴木 梅太郎(ビタミンB1)
杉本 京太(邦文タイプライター)
本多 光太郎(KS鋼)
八木 秀次(八木アンテナ)
丹羽 保次郎(写真伝送方式)
三島 徳七(MK磁石鋼)

すごいですよねえ。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、か
つ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またか
くのごとし。」
user_com.png ランクル time.png 2024/01/23(Tue) 14:06 No.39
Re: 生きる

学生の頃は遊んでいる方が面白かったので、方丈記などは興味がなかったけれど、この歳になってくると静かに時が流れて行くのがいいみたいに思えてくる。
鴨長明という人は鎌倉時代の歌人・文人で、そういう高貴な方と同じだとは思わないが、わが人生にもいろいろな出来事がありました。
私が生まれたのは昭和20年7月15日(1945)ポツダム宣言を受け入れて第二次世界大戦の終戦一か月前である。
ポツダム宣言
これも試験問題に出るから知っていたけれど、そんなに重要なことだとは思わなかった。
1945年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言である。

安倍晋三が総理大臣になったとき、ポツダム宣言を読んだことがないと野党議員の追求に答えていましたが、総理大臣をする人間が読んだことがないというのには参りました。
そんな総理大臣だったので、いま自民党の政治資金やパーティ券キックバックや派閥問題で、政治以外の問題がニッポンを揺がせている恥ずかしさ。

昭和の歴史の前半は「戦争の世紀」ともいわれており、日本の敗戦を教訓にして現在の憲法が作られ、その呪縛が日本の復興から飛躍の元となったのであるのでしょう。
戦争を知らない政治家が政治をすることを危惧していた角栄さんは先を見ていたんだねえ。
平和主義を批判する右系の人間は、戦争しない国、戦争できない憲法を平和ボケだというけれど、平和であることが何よりもいいはずなのに・・・・。

社会党や民社党はいつの間にやら消えてしまって、共産党も揺れているけれど、私は共産党の調査力のために赤旗日曜版を見ています。
日本のマスメディアは主な経営資金は広告からなのだと考えると、国営放送はもっと真面目にヤレ!!
user_com.png ランクル time.png 2024/01/24(Wed) 16:18 No.40
Re: 生きる

いきてりゃいいのか? 科学の進歩はある意味難しい社会の到来なのかもね(^o^)


ARPAネット
今日のインターネットの起源は1960年代にさかのぼります。世界を二分していた米国とソ連の間は冷戦状態でした。電子熟報処理の新しい動きは当時軍主導型でした。現在では軍の関心がインターネットを誕生させたという考え方に異議をとなえるむきもあります。
直接の因果関係がみつからないということを考えると、この異議には根拠があると言えるでしょう。しかしながらインターネットの前身にあたるネットの技術的なアイディアとその開発は疑う余地なく米国の軍関係から発しています。ですからインターネットをそういう風にみなすのも間違っているわけではありません。

米国国防省は1960年代のはじめから、いかにして重要な軍事情報を守るかということを考えていました。敵から原子爆弾で攻撃を受けても情報は安全でなければなりません。
電子情報のネットのみがその答として考慮に値しました。同じ情報が何ヶ所もの、遠く離れた場所にある計算機に保存されているというのが望ましいわけです。情報が新規に作成されたり、変更された場合、ネットで結ばれているすべての計算機に、最短の時間で最新の情報が送られなければなりません。一つ一つの計算機がいくつもの道筋を通ってほかの計算機と連絡を取れるようにしたいわけです。この方法ですと1つの計算機、あるいは特定の回線が攻撃のため破壊されてもネットは機能します。そのようなわけで米国空軍は1964年ランド・コーポレーションにいわゆる「分散されたネット」の開発を依頼しました。そこで開発されたものはまだ今日のインターネットの直接の前身ではありませんでした。紆余曲折の末このプロジェクトは失敗し、日の目を見ることはありませんでした。しかしパケットのように情報を一定量まとめて伝送する「分散されたネット」という考え方は生き残りました。

Advanced Research Projects Agency (ARPA)という1958年設立の学術研究施設があり、そこの研究結果は軍事目的に使われていました。
この施設は1966年、ARPA専用のスーパー・コンピューターをネットで結びつけることを決定しました。その際「分散されたネット」という考え方が再び取り上げられました。
1969年末に最初の4機の計算機がARPAのネットに接続されました。 3年後には40台になりました。当時はしかしARPA専用のネットでした。そのため初期の頃はARPAネットとも呼ばれていました。インターネットはここから成長したものです。

ネットで接続された計算機という基本理念は軍事目的だけに利をもたらすのではありません。
ARPAネットは学術的な仕事にも役立つということがすぐ分かりました。学者の間ではしかし同じ情報を同時に多数の計算機でシンクロ(同時に共有)させるということより、ほかの計算機が持っている情報を呼び出すことの方に関心が生まれました。 ARPAネットの技術が公開されていたため、そのような使い方を儲げるものはありませんでした。
学者は70年代初期から、ほかの研究所の研究結果をARPAネットで呼び出すことができるようになり、またほかの研究所は自分の所の情報をほかの人が使えるようにネットに提供できるようになりました。

接続された計算機の数は増加しました。互換性のないOSを使い、アクセスの方法が様々であるなど、計算機のタイプはばらばらでした。違うタイプのスーパー・コンピューター、ユニックス計算機、そして後の方ではPCもネットに飛び込んできました。その中のいくつかは24時間繋がっている専用回線を使い、他の計算機は電話・・デムを使っていました。様々な前提条件を統一するため新しくネットのための情報伝送通信プロトコル(規約)を開発する必要に迫られてきました。このプロトコルは特定のコンピューター・システム、伝送回線、伝送の速度などと枠をはめないものでなければなりません。
そのような規約を作ろうという努力の結果TCP/IPプロトコルというものが生まれました。 ARPAネットを使った情報伝送はTCP/IPの導入の後1つに統一され、標準化された規格がスタートしました。

むろん学生も学術研究施設に属します。学生もまた自分たちのためのネットの用途を発見しました。ガソリン代折半で車に相乗りさせてもらう、アルバイト探し、アパート探し、旅行のパートナー募集、またディスカッション、おしゃべりの機会のといった形で連絡用掲示板として使う、ある種の「黒板」が学生の希望する使い方でした。
このようにして今日のニュースグループの中心的存在であるUsenetができました。熱心な
インターネット・ユーザーはニュースグループを今日でもインターネットの中で最もスリルのある活発な部分だと考えています。

軍は自分たちの利益を守りたいと考えはじめました。学術関係者がネットに参加したことで軍事関係と一般市民を分離する必要が出てきました。このようにして80年代のはじめ新しい軍関係のネット、Milnetができ、ARPAネットから分離しました。 ARPAネットは学術関係の仕事の方にゆだねられました。
一般市民の側のネットに接続されたコンピューターの数は80年代になって急激な増加をみました。ここでは米国のNational Science Foundation (NSF)が重要な役割を果たしています。この組織は全国の重要な学術関係の電子計算機センターがすべて接続されている回線接続システムを作り上げました。
個々の大学のコンピューターや小さなネットは計算機センターによって接続でき、ほかのネットに入ることができました。このようにして文字通りネットの中のネットができあがりました。やがて「インターネット」という名前も市民権を得ました。「ARPAネット」という呼び方は80年代の終わりにはお払い箱になりました。
小さなネットが全体のネットになっていくための回線接続システムにはBackbone(背骨・基幹通信回線)という当を得た呼び名がつきました。

欧州では同じ頃に似たような発展がありました。しかし旧大陸ではまずISO規格というものを設定していました。ですからISO・合わないアメリカのTCP/IPモデルにはそっぽを向いていました。 1986年RARE (Reseaux Associes pour la Recherche Europeenne)という組織ができました。この組織は全ヨーロッパで個々のシステムを超越したコンピューター・ネットを作るための調整を行うという目的で作られました。
そのためRAREはCOSINE (Cooperation for an Open Systems Interconnection Networking in Europe)という名前のプロジェクトを誕生させました。

しかしTCP/IPプロトコルの大発展を止めることはもはや不可能でした。アメリカでの成功に押され、ついに欧州の情報ネットが成立しました。これは複数のプロトコルに対応し、TCP/IPと互換性がありました。このネットは最初EuropaNETという名前で呼ばれていました。様々な(ドイツ)国内の学術関係のネット、例えばDeutsche Forschungsnetz (DFN)も接続されていました。

そうこうするうちに大西洋をはさんだ回線が欧州と米国のBackbone(背骨・基幹通信回線)を結ぶようになりました。欧州内部でのインターネット通信の調整はRIPE(Reseaux IP Europeens)という組織が行いました。
欧州にも1992年以来回線接続システムがあり、このシステムはEbone(欧州インターネットの背骨)と呼ばれています。ほかの大陸でも似たような動きが見られました。

私たちが今日「インターネット」として理解しているものは、ただ1つの全く同じタイプのネットではなく、多数の小さい地域別にあるいは組織別に限定されたネットの集合です。こういったネットはBackboneに結合され、それによってネット全体に結びつきます。商業目的のインターネット・プロバイダーもそのネットにぶら下がっています。そして、最終ユーザーはそのようなプロバイダーとの契約でインターネットにアクセスすることができ、この橋を通してインターネット全体を利用することができるのです。

(随分前、ネットで拾った文章です)
user_com.png ランクル time.png 2024/01/24(Wed) 21:03 No.41
Re: 生きる

電子掲示板とは、インターネット上で記事を書き込んだり、閲覧したりできる仕組みです。
掲示板のことをBBSといいますが、(Bulletin Board Systemの略語)なんですが、駅の伝言板とおなじなんですが、そのような駅にある伝言板の説明がこれまた難しいという社会なんだねぇ(^o^)
 電子掲示板では、書き込まれたメッセージはWebサーバ経由でデータベースに蓄積され、別の訪問者が記事を参照すると、新たなメッセージが追加された状態で表示されます。
それをコメントとかレスと呼びますが、レスビアンではなくレスポンスのレスです(^_^)
こんなことを言う相変わらずな変態ネットユーザーですから、誰も寄り着かない(^_^)
蓼食う虫も好き好きで(^_^) 類は類でグループを作る。
インターネットのない時代、40歳前の頃でしたが、変な奴がまじめなこと話し合うので、これまた可笑しかったが、放射能のことやネット上の自由な書き込みにも知的権などというけったいな論議に怒り、怒り狂う奴もおった。
振り返ったら ああ (^^; 40年ぐらい前になるんだわ。
その頃の静岡の方で、とくに考え方も素晴らしいので、私の前職の本社が静岡だったので特に気になる人て、年賀状ぐらいの交流ですが、昨年は身内などの不幸続きで欠礼していて、近々報告がてりゃ屏風か谷通信のようなものを作って送ろうと思っているが‥‥‥‥
こう書くことでプレッシャーを(^_^)
user_com.png ランクル time.png 2024/01/27(Sat) 23:09 No.42
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