みんなで作ろう BBS
ランクル 2026.9.22-9:55
 2年前、私は突然心不全になってもうチョットであの世へ行くところでした。 夜中に緊急入院して蘇ったのですが、入院中は毎朝キウイフルーツが食後のフルーツに付いていました。 キウイはレモンなどよりビタミンCが沢山含まれているということで、医療センターではそうしていたのでしょう。 キウイやブルーベリーなどは海外が原産地なので、育て方などもまだよく分かっていないものもあります。 そういう意味からもインターネットは面白いものです。
これは我が家のキウイですが、ミツバチを飼っているせいなのかここ最近はよく実をつけます。 よくばりなので摘果をればもっと大きい実がなるのかも知れませんね。(^o^;
標本・資料統合データーベースという、国立科学博物館が所有する様々な標本・資料を検索、情報を調べることができます。 これは山のキノコさんに教えられた国立科学博物館ですが 植物名を入力すると画像と学名などが検索されて、育て方などもあり重宝していましたが、最近はスマートフォンが普及してきたので写真を撮って調べることができるようになって便利になりました。 園芸店などが運営しているところもあり、各人で検索サイトを探してください。
こうやって分野わけをしていくと、大きくジャンル分けした掲示板ができていくのではないかと考えています。 広告のない、みんなで作るネットの掲示板(BBS)
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皆が良くなるシステム 高度成長期
ランクル 2026.9.19-15:31
とにかく経済が良いことは、その時代に生きている人らにとってはなによりいいことです。 私は機械を売る営業ではなかったけれど、大阪営業所には所長以下7人の人間がいて、それぞれに責任がありました。 機械メーカーとしては高額な印刷機ですから買ってもらわなくてはならないから、印刷組合などに機材・印刷資材販社などの機材展をやっていました。 東京では晴海ふ頭で、大阪では天保山の国際見本市会場で、大きなのは年に二回一週間ほどやっっていました。 自動車のモーターショーのようなもので、全国から印刷業者が従業員を連れて社員旅行みたいにして来ていました。 機械設備も高額なので、機材販社が購買会などを作り、その会は金融業者も応援し、会員は毎月順番に最新式の機械を導入していくのです。 印刷機械メーカーも印刷機材販社も成長していくことになり、この仕組みは「頼申し講」のようなもので、零細事業者であっても技術と設備の充実が行われていきました。 今の世には、そういう仕組みさえ忘れてしまって、補助金にすがる生き方や政治家におねだりする軟弱者ではこの国に未来はないと思うのです。 私が帰省して、商工会の青年部に入ったときに、元気な人たちがいて、大阪や東京でやっている見本市のようなものをしようと二年がかりで計画して、島内の商工業者や西淡町も応援してくれて大成功になりました。 たしかに田舎は零細事業者ばかりですが、家も土地も皆とはいわないが自分のものである。 それらには固定資産税も機械設備・備品にも固定資産税がかかり、それらは自治体の財源でもある。 いまの世の中は、競争させて安ければ良いというので、なかなか企業は儲けるようにはならない。 儲ける利益をあげることで従業員を雇い、最新の設備ができるのだが、田舎が寂れていく原因はそこだろうと思います。 自治体はその町の税収があって栄え、人が住み学校などが無くならない。 お殿様の考え方が間違っていると思うけれど、その家臣も役立たずと見ています。 まぁこんな年寄りが言うてもなぁ (*_*)
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田舎の商工業
ランクル 2026.9.19-11:20
私は商売のことは良く知らない。 機械のことは高校が機械科だったのと子供のころからオモチャを壊してしまったのをバラして、よう治せないのに分解しているうちに仕組みが少しずつわかってきた。 世間の人はみんな初めからなんでも知っているのではなく、稼業なら親などから教わったり、徒弟奉公で親方などから教わり専門職になっていく。 人間として真面目じゃない方なので、面白い方へ(^o-) 楽な方へ向かう軟弱ものである。 しかしメシの種にある以上、途中入社したところが印刷機械メーカーだったので自然と機械と印刷業界のことが見ていくことになりました。 転職して入った静岡の会社は印刷機を作る前は工作機械を作っていました。 日本の戦後復興は「衣」「食」「住」が産業の主産業で繊維会社が多くあって、同級生も繊維会社に就職した人も多い。 篠原鉄工所はラック盤ではかなり有名だったらしい。 ラックというのは歯車の真っすぐなものと思ってください。毛糸編機は針状の棒に上に毛糸を組み合わせて自動的に毛糸編みするものですが、ラックは鋳物を(歯車の一直線なもの)直線歯にしたもので全国へ納めていました。 繊維機械メーカーはラック盤を使ってメリヤスなどの生地を製造する機械を作っていたのです。 日本に繊維メーカーがたくさんあって戦後復興の経済の基になりました。 同級生も何人かが繊維メーカーへ就職しました。 私が高校卒業した頃から高度経済成長、エスカレートに乗っているように毎年定期昇給とベースアップ( 個人の評価や勤続年数、役職に関係なく、全従業員のベースとなる基本給が上がる) ほんとうに良い時代でした。 そして地方の商店街は季節の衣料品セールで賑わいました。 そこに商店街や同業者組合などができて、商店主やその跡継ぎが青年部などとして活動していました。 同業者組合はある意味競合する者も含んでの組合だから、今の人らには考えにくいかも知れないが、ライバルのなかにも棲み分けてやってきていました。 私は印刷機メーカーにいましたが、印刷業者もそれぞれ各市町村にも印刷組合があって、何百人もいる大きな会社や家族でやっているところもありました。
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