| 尊攘討幕運動に突進した熱血の庄屋「古東領左衛門伝」 |
| 古東領左衛門の生きた時代的背景 |
| 古東領左衛門のおいたち |
| 歴史はここからはじまった。 |
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古東家は佐々木源氏の流れをくむとあった。 その流れとは・・・・ 1186 文治2年 源氏の佐々木経高、頼朝の命にて阿波淡路の守護職となり養宜(八木)に舘を築く 細川氏は幕府管領家、阿波・讃岐、奥州、備中とこの淡路などに勢力を持っていました。 永正十四年(1517)、三好之長が淡路へ攻め入った時、尚春は和泉に逃れたが、二年後に之長によって命を奪われた。 1520 永正17年 永正十七年(1520)、今度は細川高国と三好之長が戦い、之長は敗れ処刑される。 この処刑は淡路細川家の最後・彦四郎が父の仇を討ったと言われていますが、細川氏自身ついに淡路へ帰ることはなかった。 淡路の守護大名として八木養宜館を本拠に細川氏が君臨していたが、細川一族内の紛争で細川尚春が最後となり事実上滅亡し、養宜館も廃城となった。 |
| 領左衛門の生きた時代(幕末) |
| 天誅組 |
国の行く末を憂い、志に殉じ、そして明治維新の魁となった天誅組の変から今年で150年となります。天誅組の行動は、結果から見れば無謀なことだったかもしれませんが、彼らの軍令に『一心公平無私、土地を得ては天朝に帰し、功あらば神徳に属し、功を私することあるべからず』とあります。 私欲を捨て、来るべき新しい時代のために命をささげた彼らの思いに触れるとき、今の社会を変える道筋が見えてくる気がします。 人が何かを望む時、大切なのは誰かに何かをしてもらうのではなく、自分で何ができるかではないでしょうか。 藤本鉄石(津之助)・福浦元吉主従の最期(紀州藩の記録) → 「・・・彌右衛門家来高田熊助、鉄砲打掛け候へ共、一揆主従両人稲妻の如く 駆廻り、打留兼候内、両人とも旅宿へ駆込み、津之助は旅宿に所持の長押に 掛けたる槍を手早く取り、主従必死に相働き、彌右衛門見掛け討てかかるべきを、一同一時に突立て、下人は真向にかざし、聲を掛け、すでに二階に上らんとする時 奥村立蔵、上より槍を突掛け、下よりも支へ候筋もこれあり、段梯子上りかね、両人叉復奥庭へ駆廻る。 下人の真向うを、梶川三十郎、槍にて一突きに当て、主人津之助は以前の槍にて林楠之丞見掛け突掛り候処、楠之丞浅手負い候まま槍を引きたくる。 二階の屋根より寺社方陸尺利右衛門、瓦を投げ掛かる。 津之助座敷へ飛上り、なお駈廻る処を川上七郎家来花光伊右衛門、駆来りて槍を合わす。 続いて甚蔵左へ廻り、刀を以て左の腮より肩へ七、八寸斬下げ、津之助溜り得ず、そのまま座敷へ斃る。・・」 鉄石・元吉の死闘のようすが目に見えるようである。 天誅組の組織 主将 中山忠光 総裁 吉村虎太郎 藤本鉄石 松本奎堂 側用人 池内蔵太 監察 吉田重蔵 那須信吾 酒井伝次郎 銀奉行 磯崎寛 勘定方 平岡鳩平 記録方 伴林六郎 執筆方 辻幾之助 尾崎濤五郎 小姓頭 渋谷伊予作 石川一 合団方 宍戸弥四郎 森下儀之助 小荷駄奉行 水郡善之助 森本伝兵衛 小荷駄方 前田繁馬 小荷駄方下役 木村楠馬 山口松蔵 武器取調方 安岡嘉助 伊藤三弥 兵糧方 鴨川清三郎 林豹吉郎 兵糧方下役 福浦元吉 天誅組主要隊士名簿 土佐出身 吉村虎太郎 那須信吾 安岡嘉助 池内蔵太 伊吹周吉 上田宗児 木村楠馬 中倉才治郎 土居左之助 森下幾馬 森下儀之助 島並間 沢村幸吉 楠目清馬 鍋島米之助 安岡斧太郎 島村省吾 前田繁馬 田所騰次郎 大和出身 岡見銕蔵 今西甚之助 岸尾徳三郎 北本重次郎 倉本常之助 玉置佐助 山香愛之助 油上覚兵衛 乾虎蔵 丸谷源之助 野崎主計 林浜次郎 林豹吉郎 深瀬繁理 関為之助 熊代竹蔵 島本嘉吉 田中安二郎 中勘蔵 橋本秀助 安田哲吉 尾中要蔵 毛利喜右衛門 良厳 今村文吾 植村定二郎 乾十郎 田中主馬殿 橋本若狭 平岡鳩平 河内出身 伴林六郎 水郡善之助 水郡英太郎 長野一郎 田中楠之助 上田主殿 和田佐市 赤井見龍 吉田八十助 森将蔵 松崎万吉 三浦主馬 森本伝兵衛 吉年米蔵 鳴川清三郎 中村徳治郎 武林八郎 浦田弁蔵 久留米出身 酒井伝次郎 半田門吉 江頭種八 荒巻半三郎 鶴田陶司 山口直蔵 中恒健太郎 小川佐吉 三河出身 松本奎堂 伊藤三弥 宍戸弥四郎 鳥取出身 石川一 磯崎寛 船田彦次郎 淡路出身 古東領左衛門 福浦元吉 田村平一郎 備前出身 藤本鉄石 飯井半平 備中出身 原田一作 原田亀太郎 京都出身 中山忠光 辻郁之助 紀伊出身 沢田実之助 井沢宜庵 常陸出身 渋谷伊予作 岡見留次郎 肥前出身 保母健 尾崎濤五郎 肥後出身 竹志田熊雄 筑前出身 吉田重蔵 江戸出身 安積五郎 伊勢出身 吉川治太夫 宇都宮出身 松本忠来 膳所出身 北達良蔵 讃岐出身 村岡宗四郎 天誅組の変 文久3年(1863)8月13日(新暦9月26日)攘夷祈願のため孝明天皇の大和行幸の詔が発せられた。 翌14日、皇軍御先鋒と称して前侍従中山忠光卿以下39名が京都方広寺に結集。 舟で淀川を下り大坂を経て堺に上陸した。 水郡邸で河内勢が合流。観心寺に参詣し、後村上天皇陵及び楠木正成の首塚で戦勝祈願して、千早峠を越え、17日、五條代官所を襲撃。 桜井寺を本陣とした。 18日、京都で薩摩・会津などの公武合体派による政変が起こり、大和行幸が中止。情勢が一変して天誅組は大義名分を失った。 天誅組は、十津川に挙兵を求め、幕府追討軍と戦ったが、次第に追い詰められ、十津川を南下。 大峰山系を東に転じて笠捨山を越えて北山に入り、東熊野街道を北上。 川上の武木村で最後の昼食をとり、足ノ郷峠を越えて9月24日(新暦11月5日)七つ半頃(午後5時頃)、鷲家口(現東吉野村大字小川)まで1里ほどの五本桜にたどりついた。 軍議を開き、彦根勢が待ち構える鷲家口を突破するため決死隊を編成。 鷲家口に突入し壮烈な戦いが繰り広げられた。 この日から28日にかけて、那須信吾を隊長とする6名の決死隊をはじめ、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎の三総裁など17名の若き天誅組志士たちが戦死または捕らえられた。 五條代官所を襲撃して挙兵した天誅組は、40日余りの戦闘の後、東吉野村において事実上壊滅した。 鷲家口を突破した志士たちも、桜井、天理、生駒で追討軍によって捕らわれたり戦死し、大坂の長州藩邸に逃れ得たのは、わずかに主将中山忠光卿主従7名であった。 また、明治維新まで生きのびたのは二、三名に過ぎなかった インターネット上には天誅組に関するホームページ、ブログが多い。 自分の研究だとは言っておりません。 また、このことをゼニ儲けに使おうと考えているわけでもありません。 天誅組に加わった志士たちの志を称え、誇りを持って社会を変えて行こうとした天誅組に加わった志士たちの志を称えたいとの気持ちからということで許してもらいたい(^^; 天誅組の大和挙兵日譜 http://www.vill.higashiyoshino.nara.jp/tentyugumiyamatokyohei.html |