HOME人生はアドベンチャーの旅だよ(^_^) 知的好奇心画像投稿
「人生は冒険」だ!
困難や未知の状況に立ち向かい、積極的に人生を切り開いていく。
そろそろその終着点にきてしまったようだが、もう少しわが旅は続きそうだ。


※読者はコメントができます。(^_^)
 アホウな爺さんの書き込みにコメントなんて‥‥‥‥‥‥‥‥ネ
コンピューターとの出会い 
何もその勉強もしていないのに、コンピューターは凄い。
いつかはそういう時代が来るだろうと、失業時代に退職金で遊び呆けていたときに、京都電子専門学校の入学案内の電車内の吊り広告をみて思っていました。
それから何年も経ってから帰省して脱サラして、ゼニもないからコンピューターなど無理でした。
それでも新しいモノに憧れる気持ちは失っておらず、ファクシミリや携帯電話器は飛びついて買いました。
そうこうしていると松下と富士通が共同出資して作ったパナファコムという会社が、エポエースという簡易言語が使えるビジネスパソコンを販売した。
松下から C-180 という機種で、上下2つの5インチのフロッピーディスクを使い、容量に限りがあるので差し替えながら使うものでした。
基本ソフトまEPOACEという簡易言語ですが、プログラムは自分で作らなければならないので悪戦苦闘しながら何とか使えるようになるまで半年ぐらいかかりました。
コンピューター処理といっても、基本的には表計算で何枚もの表データをどう処理、集計するかですのでこれがまた面白く、無駄な時間を費やすことになりました。

ランクル   2025.8.11-12:47 修正

私のはじめてのコンピューター 松下電器のC-180
パナファコム (Panafacom) は、富士通と松下電器産業(現パナソニック)の合弁会社として1973年に設立されました。
両社から、9450(富士通)C-180(松下電器)として販売されました。
パナファコムは現在は株式会社PFUとなっているそうです。
コンピューターの知識もないのに買おうというのは、脱サラして誰も止める人がいなかったからで、今思っても無謀としか言いようがない。
そしてパソコンというよりオフコンといっても良いぐらいのものでした。
巷ではNECのPC8080とか、PC9801などが主流で、オフコンに近いものでパソコン通信までしようしいうバカはいなかった(^o^)

価格も150万円ぐらいで、お金がないので5年リースにしました。
OSは独自の物で、その上で動くソフトが「EPOWORD(ワープロ)」「EPOCALC(表計算)」「EPOBIND(表型データーベース)」「EPOACE(表型データベースの簡易言語)」で、これをEPOCファミリと言っていました。

この簡易言語のエポエースを四苦八苦して、置版管理(印刷版)、販売・仕入・経理に関するプログラムを自分作ろうとしたのです。
どこかのビジネスソフトの「大番頭」のようなものを自作したんだから立派なもんですが、誰も褒めてはくれません。当たり前です、売ったり他人に自慢したこともありません。
導入当初はデカくてフロッピーディスクも 5 インチの FDでした。
FDじゃデータを差し替えながら使うことになるので50Mのハードディスクを入れました。これもリースでしたが、なんと50万円(だったかなぁ?) 信じられますか?
まぁ『エポックファミリー』は素晴らしい ソフトでした。
でも電卓のように数字を入れたら答えがでるのではなく、表計算のようなものにデータを何枚も入れて、集計や計算して結果をメモリに記憶しておいて、それを集計などしながらまた別表に書き加えたり、台帳に照合合成して複雑な作業させるのです。
たしかに『エポエース』は素晴らしいソフトウェアです。
私は今でもウィンドウズ機に乗せて使っています。

多分、パナソニックや富士通の技術者の方でも『エポエース』のことをご存知の方はいないのではないかと思っています。




ランクル   2025.8.13-22:21 修正

子供の科学と鉱石ラジオ 


私が子供の頃、子供の科学という雑誌がありました。
終戦の年に生まれたので、月刊誌の「少年」「少年ジャンプ」とか「痛快」などを毎月買ってくれる家などそんなにありませんでした。
うちの隣保に東京から逃げてきて、奥さんの親戚を頼って小さな駄菓子と食物店をやってる家に、4つ上の男の子がいました。
その子も毎月本を買ってもらえているのではないが、「子供の科学」から鉱石ラジオを作ったのを見ました。

鉱石ラジオとは、エナメル線とバリコンとレシーバーがあれば簡単に作れたんですなぁ。
基本的には電波の知識は必要だろうが、雑誌の説明どおりにやれば簡単に作れたのです。
鉱石というとダイヤモンドとか貴金属のように思うけれど、鉄の元になる鉄鉱石、なければ土中の錆こけた古釘でも可能でした。
模型玩具店には鉱石というゲルマニュームダイオードがありました。
鉱石(ゲルマニュームダイオード)の研究の延長線上にトランジスタがあり、その研究の成果が世界のソニーとなったのです。

あっ! 横道に逸れました(^o^)
鉱石は・スイッチング作用 ・電流電圧の増幅作用 があり
アンテナから外部信号(電波)を受け取り、鉱石でオンオフ(スイッチング作用)を行うことで、バリコンで(整流器)して選局するしてレジバー(イヤホン)で聞く仕組みが鉱石ラジオなのです。
私がまだ小学校へあがる前は、真空管ラジオでほとんどの家では落語や浪曲、君の名はなどを聞いていたと思います。
子供のくせにイヤホンで聞くしかできないけれど、ラジオを作れるなんて凄いなぁと思いました。
それ以来お小遣いをもらうお盆や正月には子供の科学というのをよく買いました。
鉱石ラジオを作るのに必要な部品類

(1) エナメル塗布の銅線:0.56mm約12m
(2) バリコン350pF(コンデンサの容量を指で回して変えることができるもの)
(3) 鉱石又はゲルマニュウムダイオード検波器(電波を検波して音声を取り出す)
(4) コンデンサ:1000pF
(5) 抵抗器:100kΩ
(6) イヤホン
(7) パーツを乗せる板
(8) アンテナ用電線
(9) エナメル線を巻く筒:エボナイトの筒(直径約4cm)
(10) 工具として、半田ごて、ラジオペンチ
 ぐらいかなぁ。

知的好奇心という掲示板を作りましたが、これから色々書いて行こうと思っていますので気が向いたら読んでください。
 http://awj.s135.coreserver.jp/cgi-bin/view25/view25.cgi

ランクル   2025.8.9-18:09 修正

果てしなく旅は続く‥‥‥‥ 

私は終戦の年(1945:昭和20年)に生まれました。
淡路島の片田舎で生まれ、津井小学校、辰美中学校を経て、兵庫県立洲本実業高等学校(機械科)卒業。
社会人として第一歩を踏み出したのは、東京オリンピックの年(西暦1963年)、高槻市にある大日本セロファン株式会社に入社。
入社2年で希望退職者募集に応募。当時としては大金の退職金30万円を手に失業保険などう貰いながら 、若干20歳にしてパチンコ通いで遊び人気取り(^o^)。
その時、電車の中に”京都電子専門学校の開校”吊り広告があり、こんなことをしていたら駄目だと思いながら、そんな未知の世界へ踏み出す勇気はありませんでした。
新聞の求人広告で静岡にある工作機械メーカーが造幣局から外国製の印刷機の払下げを受け、印刷部門への転換して軌道に乗り全国展開していた時期でもありました。
しばらく静岡と東京で研修した後、大阪を拠点として、西日本全般を受け持つサービスエンジニアとして試運転や展示会の技術員、阪神・西日本一帯の印刷機械の修理で、一ヶ月の約半分ぐらいは地方出張。
その頃の印刷機械はドイツ製のハイデルベルグという名機に追いつけ追い越せで、日本の印刷業界も手差し機の時代から自動機への転換期でもありました。
そして印刷機国内ではトップメーカーとなって、私はサービスエンジニアとして全国を駆け回っていました。
私の転機は母親の病死により、郷里に帰らなければならない理由はなかったけれど、その頃はまだ五十代だったオヤジを一人で暮らさせる訳にはいかないなどと考え、小っぽけな印刷屋をはじめました。
そんな時代からパソコン通信というものが起こり、草創期からネットワークというものに思い入れをして、淡路島で第一号の草の根BBSを開局しました。
パソコン通信はインターネットに受け継がれ、世界の端からでも情報発信するという大層なものに発展してきました。
そして様々なメディアが現れ、消えていき現在はスマートホンでSNSが政治の流れまで変えるようになっているようです。

ランクル   2025.8.8-15:11 修正

趣味の野菜づくり 
 家庭菜園でやっていることを農業なんて言うつもりはないが、市民農園も家庭菜園も利益を出すのが目的ではないから、採算は度外視してかんがえている。
 「農業はもうからない」と高度成長時代の工業化社会を横目に愚痴ばかり言ってきた農家であったが、日本の農業は「プロの農家」と確立している。「趣味の野菜づくり」の市民農園と歴然とした違いを見せる。
 かつて国民の多くにとって、農業はいまよりずっと身近な場所にあった。自分の家が農業をやってなくても、親戚や友達をたどっていけば、農家をみつけるのはそう難しいことではなかった。
 小さいころは田んぼの間の道を歩いて小学校に通っていた。これが、戦後の高度成長期をへて、つい最近まで日本各地で起きていた風景の変化だ。ずっと国民のための食料の生産基地だった農地が、家や工場やスーパーに姿を変えた。そして、人口減少時代に入って変化がようやく止まったと思ったら、残った田畑は耕作放棄地という名の荒れ地に戻ろうとしている。
 ひとの暮らしに農業がこれほど縁遠いものになったのは、歴史上はじめてのことではないだろうか。いまほとんどの人はだれがどうやってつくったか知らない食べ物を食べている。
 一方、まわりには数え切れないほどの耕作放棄地予備軍が広がっている。都市近郊の細切れの農地は、「強い農業」を実現するには狭すぎる。だが、たった10平方メートルの農地でも、ふつうのひとにとってみれば、たくさんの作物をつくることができる「広大な宇宙」になる。ここが、農業をもう一度身近なものにする出発点になる。
 それは利益を出すための農業ではない。だが、「顔の見える野菜」が安全と安心の手がかりになるなら、これほど確かなことはない。しかも、高齢者にとっては、健康を維持するための作業になる。子や孫と触れ合うための場所にもなるだろう。
ランク   2025.7.14-21:49 修正

テスト 
よくわからないけれどテストしています。
ランクル   2022.5.25-11:16 修正

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