家庭菜園でやっていることを農業なんて言うつもりはないが、市民農園も家庭菜園も利益を出すのが目的ではないから、採算は度外視してかんがえている。 「農業はもうからない」と高度成長時代の工業化社会を横目に愚痴ばかり言ってきた農家であったが、日本の農業は「プロの農家」と確立している。「趣味の野菜づくり」の市民農園と歴然とした違いを見せる。 かつて国民の多くにとって、農業はいまよりずっと身近な場所にあった。自分の家が農業をやってなくても、親戚や友達をたどっていけば、農家をみつけるのはそう難しいことではなかった。 小さいころは田んぼの間の道を歩いて小学校に通っていた。これが、戦後の高度成長期をへて、つい最近まで日本各地で起きていた風景の変化だ。ずっと国民のための食料の生産基地だった農地が、家や工場やスーパーに姿を変えた。そして、人口減少時代に入って変化がようやく止まったと思ったら、残った田畑は耕作放棄地という名の荒れ地に戻ろうとしている。 ひとの暮らしに農業がこれほど縁遠いものになったのは、歴史上はじめてのことではないだろうか。いまほとんどの人はだれがどうやってつくったか知らない食べ物を食べている。 一方、まわりには数え切れないほどの耕作放棄地予備軍が広がっている。都市近郊の細切れの農地は、「強い農業」を実現するには狭すぎる。だが、たった10平方メートルの農地でも、ふつうのひとにとってみれば、たくさんの作物をつくることができる「広大な宇宙」になる。ここが、農業をもう一度身近なものにする出発点になる。 それは利益を出すための農業ではない。だが、「顔の見える野菜」が安全と安心の手がかりになるなら、これほど確かなことはない。しかも、高齢者にとっては、健康を維持するための作業になる。子や孫と触れ合うための場所にもなるだろう。
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