離岸堤について
ランクル 2024.8.4-16:33
(新潟県長岡市) 寺泊海水浴場の海水浴場付近調査結果 (現在は掲載は見当たりません) <無断転載> 離岸堤について Return 修正・削除 修正・削除 |
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インゲン豆と隠元隆g禅師と國清寺
ランクル 2024.7.27-17:09
インゲン豆と隠元隆g禅師 隠元は二十人ほどの弟子を連れ来日しました。 遣隋使・遣唐使の時代よりはマシとはいえ、航 遣隋使・遣唐使の時代よりはマシとはいえ、航海はまだまだ命がけの時代に隠元が日本に持ってきたのが、「いんげん豆」だといわれています。 そして私の本業にも関係する「明朝体」らしい。 國清寺は江戸時代中期、鉄眼禅師の弟子の勝算和尚が創建したました。 戦後の混乱や農地解放などで衰微、荒廃していたところ、淡路島で育ち黄檗僧となり一九七七直原玉青(南画家)が復興に着手しました。 襖絵などは直原玉青住職の作品で埋め尽くされ、弟子たちが南画を学べる環境も整えられた。直原住職を支えてきたのは弟子の一條青橋・第二七世住職(現在は閑栖)で、現住職M端靖直(二八世)二人で法務を行じておりました。 平成七年の阪神淡路大震災により本堂・茶室(小林一三翁が愛用されていた素軒が当寺に移築されております)が大破により祖師堂だけでは仏事を行うことにいたしておりますが、本堂・茶室の建設について宗門檀信徒など以外にも「地震災害による本堂・茶室の修復寄付勧募のお願い」と活動をはじめましたが、一條青橋が令和4年に亡くなりました。
松帆にある滝川弘医師は直原玉青画伯の南画を所蔵していて、それを玉青館という画廊を町に作らせ、その建設資金もの寄付をしたり、滝川育英奨学金などを創設したり大変立派な方でした。 そして直原玉青も亡くなり、滝川医師も弟子の一條青橋もなくなってしまいました、 滝川弘医師は政治から経済、法律までお見通しの凄い方でした。 余談ですが、私が中学二年のとき盲腸の手術をしてくださったのは滝川医師でした。 いまもお話をしながら手術を思い出しています。
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国清庵は淡路における唯一の黄檗宗の禅寺
ランクル 2024.7.27-16:22
黄檗宗 日本の各地の修行僧が大勢、隠元禅師に帰依し弟子となり教えを受けた。その中には後水尾法皇や徳川家の将軍もおり、天皇家や武家にも黄檗宗の教えが広まっていった。そのご縁や恩恵もあり、黄檗宗は現在までの350年余りの歴史を数えられている。 『唯心の浄土 己身の弥陀』 禅宗の教え、即ち仏道の真理について端的に述べたのがこの言葉である。 この世で実在するのは心だけであり、総ての事物、現象は心の働きによって仮に現れたものであるとする「唯心」という考え方に基づけば、「浄土」(汚れや迷いのない土地、佛の世界)も心の中にある。即ち自分自身の身こそが阿弥陀仏なのである。
私の生まれ育った西淡町(旧)に「国清庵」があります。 西路の国清庵は淡路における唯一の黄檗宗の禅寺であります。 いまでこそ南あわじ市志知は行政上では重要なところとは見られていないが、志知城があり、鎌倉時代初期に菅和泉守道忠によって築かれたと云われる。 秀吉が天下を取ると、政権が変わり廃城となるのは世の定め。私は小歴史学者でないので、想像だけでしか見ませんが、三原川から上ったところに城がありました。 南北朝時代なら、戦略的にはありえることだろう。 そこに勝算和尚という面白い僧がいたそうです。 勝算の名が最初にでてくる文献としてはやはり淡路常磐草である。 それによると「国清庵、同じ村山田にあり近ごろ黙仲勝算和尚(嗣法金栗宝洲和尚)片田北村国清寺の廃基を移して黄檗山派の禅刹を開くとある、次にくわしい記事を残しているのは味地草と淡路名所図絵である。 勝算和尚 (菊川兼男先生の書かれた:西淡風土記より) ・逸話の多い大悟るの禅僧 西路の国清庵は淡路における唯一の黄檗宗の禅寺である。この寺の最大上の開山が勝算和尚である。 勝算の名が最初にでてくる文献としてはやはり淡路常磐草である。それによると「国清庵、同じ村山田にあり近ごろ黙仲勝算和尚(嗣法金栗宝洲和尚)片田北村国清寺の廃基を移して黄檗山派の禅刹を開くとある、次にくわしい記事を残しているのは味地草と淡路名所図絵である。 『味地草』によると享保十五年の和尚の年齢は六十八歳である。それが正しいとすれば勝算は寛文三年(1663)に生まれたことになる。 勝算の生まれは西路浦らしく、生家が貧しいので大坂の商人太刀屋某にもらわれた。彼は少辱時代から頭のよい、憐れみ深い子であったらしく、大坂の有名な禅寺瑞竜寺の鉄眼和尚に弟子入りした動機の逸話がある。 太刀屋の法事の目、養父が少年勝算に豆腐を買ってこいといいつけた。ところが勝算は使いの途中で子供たちがスズメを捕えて遊んでいるのをみて憐れに思い、豆腐を買う銭でそのスズメを買って放してやった。彼が喜んで帰ってくると養父は勝算を叱った。 叱られた彼は「法事に豆腐で仏の供養をするのと、苦しんでいるスズメを放してやるのとどちらが仏の供養になるでしょうか」といい返したという。養父はこんな子は商売人にするより僧侶にした方がよいと思ったのか禅寺へ弟子入りさせたという。 『味地草』によれば貞享元隼(1684)とあるから二十二歳の年、片田北村にあった国清庵へ来たことになる。 味地草が伝える和尚の行状はいかにも禅僧らしい。俗人からみれば奇人変物ともみえる。 禅僧としての修行に熱心であって、どこでも座禅をした。阿那賀の荒磯(丸山の磯か)で座禅したり、山の中へはいって出てこないこと三、四日におよぶこともあった。櫓がいのない舟を阿那賀の海に浮かべて漂ってみたり、そうかと思えば自ら丸薬を調製して養生につとめ、またその丸薬を人にもほどこした、つおに「ふご」をかついで持ち物を入れて往来したので、ふご和尚と世間の人からいわれて親しまれた。 人家にはいって施されると魚肉も食したという和尚である。修行に熱心であって、しかも酒脱と飄逸なところが、和尚を知る人を感嘆させ百姓、漁師にも親愛されたのであろう。
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