私は終戦の年(1945:昭和20年)に生まれました。 淡路島の片田舎で生まれ、津井小学校、辰美中学校を経て、兵庫県立洲本実業高等学校(機械科)卒業。 社会人として第一歩を踏み出したのは、東京オリンピックの年(西暦1963年)、高槻市にある大日本セロファン株式会社に入社。 入社2年で希望退職者募集に応募。当時としては大金の退職金30万円を手に失業保険などう貰いながら 、若干20歳にしてパチンコ通いで遊び人気取り(^o^)。 その時、電車の中に”京都電子専門学校の開校”吊り広告があり、こんなことをしていたら駄目だと思いながら、そんな未知の世界へ踏み出す勇気はありませんでした。 新聞の求人広告で静岡にある工作機械メーカーが造幣局から外国製の印刷機の払下げを受け、印刷部門への転換して軌道に乗り全国展開していた時期でもありました。 しばらく静岡と東京で研修した後、大阪を拠点として、西日本全般を受け持つサービスエンジニアとして試運転や展示会の技術員、阪神・西日本一帯の印刷機械の修理で、一ヶ月の約半分ぐらいは地方出張。 その頃の印刷機械はドイツ製のハイデルベルグという名機に追いつけ追い越せで、日本の印刷業界も手差し機の時代から自動機への転換期でもありました。 そして印刷機国内ではトップメーカーとなって、私はサービスエンジニアとして全国を駆け回っていました。 私の転機は母親の病死により、郷里に帰らなければならない理由はなかったけれど、その頃はまだ五十代だったオヤジを一人で暮らさせる訳にはいかないなどと考え、小っぽけな印刷屋をはじめました。 そんな時代からパソコン通信というものが起こり、草創期からネットワークというものに思い入れをして、淡路島で第一号の草の根BBSを開局しました。 パソコン通信はインターネットに受け継がれ、世界の端からでも情報発信するという大層なものに発展してきました。 そして様々なメディアが現れ、消えていき現在はスマートホンでSNSが政治の流れまで変えるようになっているようです。
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